網走刑務所の博物館には様々な資料が展示されていました。
当時生産していた品目、広さ、売上まで公開されていてメモしてきたのですが、大体247ha程度の広さの農地で1億7千万ほどうりあげていたようです(昭和49年)。
これだけみてもちょっとよくわかりませんので・・
今でも北海道の代表品目小麦についても同じ表に記載されていました。
これを見ると小麦は950a作られていて生産量は19,320kg、売上は1,410,025円(昭和49年)。
反収およそ203kg/反というところでしょうか。
令和4年度の小麦の作付け面積は22.7万ha、総収穫量は98.8万トンなのでおよそ432kg/反。
(参考:農林水産省「作物統計」)
※10反=1haとしています
当時の全国平均を調べてみると、同じく農林水産省「作物統計」より、作付面積は82,800ha、収穫量は231,700トン
反収はおよそ280kg/反となります。
小麦のような農産物だと機械による影響が大きいと考えられるので農家たちのほうの生産性の方が優れていたのかもしれません。
農業機械はどうだったのかなと思って小麦の歴史というレポートがあったので見てみると、昭和37年に日本で初めての自走式コンバインが農業機械化実験集落(芽室町)に導入されたとあります。
これにより労働生産性がてん菜の4倍、馬鈴薯の10倍となったと言われていて、今日みられる大規模小麦栽培による生産・流通システムの基礎となったと紹介されています。
同時にこのレポートを見ると昭和41年から50年にかけての10年間は全道で1万haの作付面積で平均反収は235kg/反、変位計数が31%と低収不安定で、その原因は冬枯れと穂発芽と記載されていたので、それを考えてみると反収203kgというのは割と使用されている農業機械によっては平均だったのかもしれません。