先日島原に所縁のある人と話していたところ、島原そうめんの話になった。
聞くとかの有名な島原の乱で島原一帯の農民が激減してしまい、幕府による移住政策の結果そうめん文化が根付いていた小豆島の民によってもたらせられたらしい。
そんなに農民が死んだのか、と思って島原の乱について調べてみると宗教戦争と思っていた島原の乱は農民の一揆だった。
当時新しく着任した松倉重政が居城を移転させたこと、過度な年貢の取り立てに大飢饉が重なった上、異教徒禁制が厳しさを増したことから島原の対岸の天草諸島の領民と合流し島原の乱となった。と。
島原の乱は原城の一揆とも言われているのですね、廃城になっていた原城に籠城し幕府軍と戦ったよう。
その際にただ一人の生き証人山田右衛門作(幕府との内通者と疑われ牢獄に入っていたらしい)以外は女子供含め全て殺害されたそうで、そりゃ農民はいなくなる・・
幕府による移住政策は年貢の優遇措置などもとられたこともあり多くの農民がこの機会に島原に移住したようだ。
その時に幕府直轄領の讃岐の国小豆島より移住してきた者の中に手延べそうめんの技術をもった者がいてそれから島原の地でそうめんが作られるように。
今では手延べそうめんの生産量は長崎県は2位と小豆島(香川県)の生産量を抜いて産地となっている。
島原そうめんには乱前説もあり、中国から伝来したという説も。こちらは福州(現在の福建)伝来説。
肥前日野江藩(のちの肥前島原藩)の幕府への献上品に「素麺二千貫(御献上並び御進物用、江戸へ御仕送物)、素麺十五貫(御参勤の節、九月より霜月まで三度の御仕出)」を贈った。との記録があり、これは島原の乱よりも前のことなので乱前から素麺を作るものがいたと考えられる根拠に。
素麺の製造方法は福州のものと同一で復習の方言で「線麺/ソーミェン」と発音され、500年前に現在の福建省から大量の移民が九州へ渡った記録があることなどから福州伝来説も。