江戸時代は年貢が物納でしたが、この頃から換金作物(商品作物)が出始めます。
農民が作る作物は幕府や藩から指定されていたはずですが、どうだったんだろう?!と思って調べてみた。
学校の歴史で習うこの辺りの出来事は・・
1643年田畑勝手作禁止令、つまり勝手に作付けするなということで商品作物の栽培抑制を江戸幕府は考えていたとみてよさそうです。
そもそも江戸幕府は石高制を採用していて、米主体の経済政策(農本主義)を基本にしています。
貨幣経済となると財力の備蓄ができ、地方の藩が財力をつけてくるのを嫌っていたからではないかなと考えられます。
しかしその後
1735年田畑勝手作仕法が発令されます。この制度は年貢増徴を条件に商品作物の栽培を黙認するものです。
話は江戸時代初期に戻ってこの頃になぜ商品作物がでてきたのか?!を考えると、どうも秀吉の朝鮮出兵がありそうです。
当時朝鮮から輸入に頼っていた木綿、これは戦国時代に衣料原料として需要が伸びるものの国内で生産されていなかったため高価で取引がされていたはずです。
そこで朝鮮出兵の際に参加した武将が種を持ち帰り西日本の各地で米ではなく高値で取引される綿作がブームに。
さらに戦乱がなくなった江戸は都市が発達、夜も明かりをつけるため照明用の油の需要が激増、当初はえごま油を使っていたようですが菜種油に需要がシフトし、これも需要が高まることから農民たちからすれば収入源に。
貨幣経済が浸透してしまえば財をなすものが出てくるので田畑勝手作禁止令で律しようとしたが、結局はお金儲けの味を占めた農民や商人に負けて田畑勝手作仕法が制定されたという流れでしょうか。
ちなみに年貢は物納、基本は米で、一部米以外で認められていたものも石高換算で現物納。
これを諸藩は大阪で売却して貨幣に変えて経費にあてていたと。